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どうも。
生活保護芸人から
宗教芸人にジョブチェンジしました「えらいてんちょう」です。
前作を書いてから、様々な反響がありまして、「一神教は深い!もっと勉強しようと思います!」とかいう声が目に入るようになりました。
無駄だからやめとけ、宗教を外から勉強しても一切わからない、宗教を知りたければ入信するしかない、という話をします。
はじめに申し上げますが、本記事は特定の宗教への入信を勧めるものではありません。宗教一般、信仰一般に対する一意見としてご覧ください。この記事を見て変な宗教に入信して人生狂っちゃっても、「えらいてんちょう」は責任を負いかねますのであしからず!
【勉強すればそのものがわかるようになる、というのは受験勉強的発想。信仰は受験というより結婚のようなもの】
概してこのように、勉強するというのは、学歴が高く、頭の良い人が多いです。私が知っているこのタイプの人間は、全員残らず宗教的大成を見ずに終わっております。
ここでいう勉強とは、外から見ていることです。自分が信仰の中に入らず、本を読み、たとえば練習問題を解くようにすれば、大学に合格できるかのごとく、その宗教が、信仰がわかる、と勘違いしているわけです。
信仰は結婚のようなものです。てんちょうも
出会って2週間で結婚しましたが、日々結婚って素晴らしいなと思います。先のことはわからない。やってみないとわからないのが結婚です。
信仰について外部から勉強するということは、結婚せずに結婚生活についての本を延々と読んでいる状態に等しいわけです。結婚については、結婚しないとわかりません。そして、それがどれだけわかるか、わからず離れてしまうかは一人一人によります。信仰もそれと同じなのです。
【すべての教義に通じている非信者よりも、入って1日目の何も知らない信者のほうが偉い】
あらゆる宗教で、その教義にあまねく通じている非信者よりも、入って1日目の何も知らない信者、あるいはふまじめな信者のほうが偉いとされています。これもまさに理由がありまして、信仰というのは、主観的かつ身体的なものでありますので、100冊の本を読むより一回の礼拝が勝るのです。実際、100冊の本を読むより、一回礼拝をするほうが、その宗教について多くの知見が得られるものです。
【戒律が守れないから入らない?戒律を破っても、ふまじめな信徒になるだけだ】
ある宗教が魅力的だと思うが、その戒律・・・礼拝、食事の制限、修行など・・・を守れそうにないので入信しない、というパターンもあります。これもまたひとつの、信仰から遠ざかる考え方です。
戒律が守れなくても、ひとりのふまじめな信者になるだけです。100冊の本より1回の礼拝が優先されるように、
ふまじめな信者はまじめな非信者に優越するのです。
個人的な体験を語らせてもらえば、わたくしも宗教に入信した際は、その宗教の戒律をまったく守れなかったものです。しかし、
日が経ち、信仰が深くなるにつれ、体が戒律に反することを拒否するようになってきました。これは絶対に本を読んでいては得られない感覚であり、このような主体的な体験をしているか否かは、宗教に対する理解のひとつの大きな違いです。
【信仰にも婚期がある。宗教は適切な時期を逃すと一生入信できない】
勉強して、よく理解して、納得できたら入信しよう。いまの市民社会に適合した、非常に合理的な発想です。しかし、この考え方は、宗教に興味があり、何らかの信仰を持ちたいという方には危険な考え方です。さきほど信仰を結婚に例えましたが、信仰にも「婚期を逃す」という現象があります。事前に勉強し、多くの知識を仕入れるにつれ、「本当にこの宗教が自分にあっているのか」とか「戒律を守れるか」とかつまらないこと考えて、一番重要な「入信」ができないという事態になりかねないのです。
もうちょっと調べてから。もうちょっと勉強してから。その一瞬が、あなたを一生涯宗教から遠ざけるのかもしれないのです。
【まとめ:いやになったらやめられる。気軽に宗教に入信しよう!】
結婚も同様ですが「一生に一度のことだから、もっと精査してからにしよう」なんて思ってませんか。入信なんて勢いでするものです。知識も戒律も、あとからついてきます。
こちらも結婚同様、いやになったらやめればいいだけです。一般的には、たとえば「イスラム教は棄教できない。棄教したら殺される」などと理解されていますが、これは大きな誤解です。一番棄教に厳しいとされるイスラム教でも、確かに背教は死罪とあるものの、「シャリーアは完璧なので、棄教したものは精神がくるっている。精神異常者に必要なのは、処罰ではなく治療である。」と解釈することが多いのです。
人心が離れることは多々あり、そのたびに殺しをしていてはとても教勢を維持することなどできません。どんなに「棄教はいけない」とされている宗教でも、この原理は適用されるでしょう。オウム真理教のように若い新興宗教は、時の試練を経ていませんので、注意が必要ですが。どこの宗教でも嫌がられるのは、棄教したうえで、信者が信仰の核にしている部分を公に侮辱することでしょう。それは、一部の熱心な信徒を怒らせても無理はありません。そうしない限り、人の心が離れるという自然現象に対しては、どの宗教も寛容なのです。
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