旦那さんの子どもを産むとは限らない
8月23日に発表された上記のエッセイですが、挑発的なタイトルとも相まって、バズを起こしていました。
下田美咲さんのことは、不勉強ながらこの記事ではじめて知りました。
エデンにも呼んで欲しいという声があがっていた方で、いまひとびとの支持を集めつつある論客のようです。記事内容のうち多くは、ラディカルフェミニズムに分類されるであろうよくある内容で(私はまったく同意しないが)理屈だっており、まぁそういう主張にたどりつくひともいるよね、という感想を得るものです。しかし記事内容の一部は、下田氏がそれとはわからず陥っている誤った認識に基づくもので、これが大衆の支持を集めるとしたら反論しなければならないと考え、この記事を書きました。
私は年収300万円程度の自営業ですが、これくらいの世帯年収でも豊かに楽しく子どもが育てられることを繰り返し主張しており、結婚2年目・子どもは4か月をまもなく迎えます。本稿で、お金がなければ子どもを産むべきではないという下田氏の理屈に反論しつつ、下田氏が陥る危険について指摘します。
【下田氏の思想を読み取る】
子どもは親を選べないんだから、私がちゃんと相手を選ばないと。変な男を父親にするわけにはいかないの。子どもが欲しいなら、まず父親になる資格がある生き方をしてくれないとダメ」という風に話していた。
「本当に父親になりたいの? 父親になるって、どういうことか分かってる?」という話も、よくしていた。
子どもってすごくお金がかかるんだよ、子育てって最低限の衣食住を用意すればそれで良いってものじゃないんだよ、そんなことで親の責任を果たした気になる男なら私はそんな人とのタッグで子育てをするのは嫌だよ、もしその子が夢を見つけた場合、とんでもないお金がかかるかもしれないんだよ、3000万円は最低限の教育や生活をさせるのにかかるお金であって、私はそれじゃ親として全然ダメだと思ってる、親の力不足で子どもに何かを諦めさせたり、可能性を狭めるなんてありえないよ。そんな風になってしまうのなら子どもに申し訳ないから産みたくないの。
「って考えると、どのくらい大変なことかわかる? 子どもを持つなら、お金なんていくらあっても足りないんだよ。つまり、あなたの自由になるお金は1円も無くなるの。飲み会も行けないし、友達とも遊べないよ、欲しいものも買えないよ。それに時間だって、仕事以外は全部子どもに使ってくれないと私はストレスに感じる。子どもを持つってことは、父親として生きていくってことだよ。できるの?」
(中略)
こんな会話を繰り返した結果として、彼の生き方は出会った頃とはどんどん様子が変わっていき、私の第一子種馬テストにクリアした。
しかし、そこでゴールではない。妊娠中も「この人は父親向きなのか?」というテストは、ずっと続いていた。
そもそも「父親向き」の定義の内容は私の中に色々あるのだけれど、子どもにとって良い父親かということのほかに、「一緒に子育てをして楽しい相手か」「子育てをするパートナーに相応しいか」というような、妻側の視点も含まれる。子どもの父親を誰にするかで、母親ライフというのは随分と変わってくる。どんな男と子育てをするか、これはかなり大きな運命の分かれ道だ。父親は、たった1人しか選べない。この貴重なひと枠に誰を当てはめるか。これは私が快適な子育てをするために、すごく大切なことだ。妥協できない。
女として、どんな男との間に子どもをつくるのが正解なのだろう。私はこのことを妊娠前からずっと考えていたし、妊娠してからも、常に考えている。(上記記事より引用)
以上から読み取れるのは、下田氏は
①親の資金があればあるほど、子どもの可能性は広がる。親は子どもの可能性を狭めるのは、決してあってはいけないことだ。
②お金はあればあるほど子どもにとってよいので、子どものためには、親はあやゆる支出を抑制し子どもに投資し、または投資の可能性を残さねばならない。
③どのような基準を設けるかについてはまだ結論がないものの、良い父親、というのは個人の資質によって決まり、良い夫婦、良い家庭という観点はない。
という思想を持っていることです。それぞれについて、反論します(端的にあやまりな「最低3000万」などについては、今回は触れない)。
【①への反論:可能性は自動的に制限されており、それでよい】
子どもの可能性を制限するという概念が不明瞭です。日本で産まれてる時点で子どもの母語選択可能性を制限しているし、国籍選択可能性を制限しているし、子どもが生まれ育った場所以外の場所を故郷とする可能性を制限しています。アメリカで生まれれば米国籍を取れたのに、日本で出産する時点で子どもが米国籍を取る可能性を排除しています。
そもそも、大金があり子どもの希望をなんでも叶えるとすれば「お金がないなかでやりくりする」「予算制限のなかで生き抜く」という子どもの可能性を制限しているため、論理的に矛盾を呈しており、「子どもの可能性を制限するのは罪」論は理論として破たんしています。
可能性は自動的に制限されており、子どもも配られたカードで闘っていくしかないのです。いままで人間はそのように歴史をつくってきました。
子供の選択可能性などというのは、現代のいっとき、非常に限られた期間に出てきた無意味な概念にすぎません。
また、「夫の使えるお金は一円もなくなる」というのも気になるところです。
子供にとって一番よいのは、両親が機嫌良くほがらかにいることではないでしょうか。子どものために一円も金を使うなとして、20年以上にわたり夫の行動を制限して、子どもがゴルフ選手になりたいといったら支出を惜しまない妻のもと、機嫌良くしていられる男はなかなかいないと思います。
【②への反論:最良のカードは、金の高だけでは決まらない。むしろ、金の高なんて優先度は低い】
子どもも配られたカードで闘うしかないとはいえ、最良のカードを用意してあげたいという気持ちはわかります。しかし、それは金の高で決まるものでしょうか。
子どもが「たくさんおカネを使ってくれるけど、全然家に帰ってこない親」に対して恨み節をいう、というフィクションは古今東西枚挙に暇がありません。子どもにとっての幸せは、自分がやりたいといったことをなんでもやらせてくれる親ではなく、
安定した関係性に基づいて安定した愛情を注いでくれる親ではないでしょうか。自分の親との思い出として、高価な習い事をさせてくれたことを感謝する人間は非常に珍しいいっぽう、たまに土曜日にはいつもいない父が昼にインスタントラーメンを茹でてくれた、そういったことをあげる人間は多いです。
昔読んだ論文で、もっとも子どもにとって良い記憶として残りやすいのは、父親のつくる食事、とありました(出典忘れた)。良い記憶、良い体験が蓄積されれば、それは良い人間に育つのでしょう。
中学生の勉強をみていますが、子どもの願望なんて日々変わりますし、本人たちもそんなに気にしていないでしょう。子どもの○○したいという夢を金銭的に阻害しない、などというのはまったくの些事で、それよりも、○○したいわけについてともに検討したり、それが
大金のかかる真摯な希望だった場合には「それは大変なお金がかかる。いまうちにお金はない。どうすればいいか、いっしょに考えよう。」と子どもに言える親のほうが「ちゃんとした子育て」なのではないでしょうか(そして、たいていの真摯な希望は、それにこたえる公的・私的扶助があることが多い。医学部の奨学金とか)。
【③への反論:子育ては夫婦体で行うものだし、夫婦体は流動的なもので相互の協力が必要不可欠】
下田氏のなかでは男性の「父親力」のようなものが、能力別にわけられ数値で表せる、その数値が高い男性を父親として選ぶことが母親たる自分の責任、という世界観なのかな、と思いました。
いっぱんにいって「父親力」は数値化できず、また進展の仕方が想像できない力です。横暴で全く父親になるなんて思えない人間が子煩悩なパパになることは珍しくありませんし、こんなやさしい男性が豹変するかという例も珍しくありません。それは、父親性というものは子供が生まれて初めて存在する「関係性」が本質だからです。
ひとは客観的にいろいろな能力をもっているわけではありません。子供が生まれ、子どもの泣き声を聞くことで開花する「父親力」もありますし、その逆も珍しくありません。そして、パートナーが良き母親・良き妻であることが支えになって良き父親になることもあるでしょう。
翻ってみて、下田氏は良き母親・良き妻なのでしょうか。いろいろな好みがありますから、なんだかんだバランスがとれてよい家庭なのかもしれません。しかし、文面だけみると「他のひとの子を産むかもしれないよ」「別れるかもしれない」という脅しを使いながら、夫をコントロールしようとしており、子どもの成育について全責任を夫に負わせているようにしか見えません。これでは夫は別れられないように妻の機嫌を常日頃から気にして緊張していなければならず、子どもも「両親は別れるかも」と言われつづけたら、ちょっと心境穏やかではないでしょう。もちろん、それに適応するタイプの父子の場合もあると思いますが、そんな過度なストレスを与えつつ、子どもの可能性を制限することが罪だというのは、いくらなんでも破たんした論理といわざるをえません。
※繰り返しますが、下田氏の夫はそれにたまたま適応するタイプである可能性は否定しません。いろいろな家庭のタイプがあります。
【まとめ:自由は存在せず、不自由を自覚することで相対的に表れるものにすぎない】
総じて、「お金だけが私たちを自由にし、お金の不足以外に私たちを不自由にするものは何もない」という思想の持ち主なのだな、という印象を受けました。
選択肢というのは、自動的に制限されていくもので、選択肢を多くしてあげたいというのは、現代に特殊な愛情形態で、かつ子どもにとって無意味な教育だと思います。金がないくらいでくじける夢なら、最初から才能がなかったのだと思いますし、親の全面的な力添えがなければくじけてしまうような可能性に価値があるのでしょうか。
それでも、子どもには無限の可能性があります。それは、親には想像のできないことをする可能性です。たとえば、オウム真理教に出家する可能性もありますし、たとえば、コンゴ共和国に異常な興味を持ち、永住してかえってこないかもしれません。あるいは、戦争にひかれ、海外で傭兵にあって死ぬかもしれません。それが子どもの可能性というものでしょう。親はそれに対して、一番近い他人として、幸せを願った意見を述べることしかできないのです。それまで、危害を加えず安全を守り、後見人として役割をはたせば、親の役割は必要十分なのです。
自由とは、不自由の反射効果にすぎません。できないことを自覚することで、逆にこれはできるということを指摘できるにすぎないのです。
たとえば、私たちは裸で外出しません。これは法律で定められているからか、文化的なものか、複合的なものかわかりませんが、私たちは裸で外出する自由がないと評価できます。私はとくに裸で外出したいと思わないので問題ありませんが、裸で外出したいひとは制限を受けてかわいそう、ということなります。このように、私たちは気付かない不自由に囲まれて生きています。
先ほどの米国籍の例もそうです。私たちは、米国で生まれれば米国籍を得られたのに、親の勝手で日本国籍になってしまいました。米国に永住するのが非常に難しくなります。不自由です。こんなこと、あげていけばきりがありません。自由というのは、できないこと=不自由を整理して、不自由の一般的法則(宗教でいえば、戒律)を明らかにすることによってのみ、反射的効果として得られるものなのです。
子どもの選択肢を減らさない=不自由を与えないために、金をためなければならないという発想自体が不自由の極みである、というのが私が指摘したい一番のことです。
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